透き通るように輝くふぐ刺しは「ふぐの郷臼杵」のこだわりの表れです。
お客様にお出しするふぐは、その日捌いたものを使います。
料理する時にまだ身が活きているのであまり薄く引くことができません。
ですから、その一片一片に存在感のある少し厚めのふぐ刺しは新鮮さの証でもあります。誰もが遠慮なく箸をのばせるふぐ刺しのボリュームも私達のこだわりです。
臼杵のふぐの美味しさは、ご存知の方も多いと思いますが、その所以はこの臼杵の漁場にあるといえます。漁場のある町であるからこそ この地域の人々がふぐの味についても良く知っていると言えるのではないでしょうか?
実は 漁が解禁となるお盆過ぎに ふぐのとても美味しい時期があります。とても美味しい時期なのですが、客は冬のものだとしてほとんど来ないので、地元の人々が食べ、「逆旬」などという言葉で表現したりします。
ところで、2007年の3月(2008年は3/26)に九州全体から二百数十名集まって博多で初めて夏ふぐの勉強会が催され、臼杵からも十数名の業者が出席しました。それを機に、いろいろなことが解ってきました。
◎縄文時代からふぐが食べられていたこと
縄文時代の貝塚から 「ふぐ」の骨が出土しております。
・・・・・・例えば青森県の三内丸山遺跡の資料館などにもふぐの骨が展示されています。
◎ふぐの毒でずいぶん人が亡くなったこと
特に豊臣秀吉の朝鮮征伐の折には、博多に結集して待機していた多くの兵が
「ふぐ」を食べて亡くなり、大事な戦力を失ったとして「ふぐ食禁止令」がでたといわれています。江戸時代に入っても藩令によってふぐ食を禁じていた藩もあったようです。
◎江戸時代には「夏」食べられていたこと
江戸時代の初期の料理本である「料理物語」に「ふくとう汁」というメニューがあります。
「ふくとう汁」は味噌と醤油で味をつけ、共にするのは茄子と大蒜にんにく・・・・
とあります。茄子は毒消し作用があるとも伝えられています。
ナスやニンニクは夏の野菜ですから この時代は夏に食べられていたと考えられます。
・・・この事から 我々が感じていた「逆旬」が肯定されるわけです。
◎「白菜」の伝来と「ふぐちり」
それでは何故ふぐは冬の物とされているのでしょうか?
明治時代、それまで日本にはなかった「白菜」が中国から伝来しました。
明治27〜28年の日清戦争の折、日本兵が伝えたといわれています。
しかし栽培は思うほど上手くいかず、日本全土に普及したのは大正時代だそうです。
そこで、秋になり白菜ができると、これに一番よく合う魚が「ふぐ」だということで、また丁度時期を同じくして柑橘類の橙やカボスや酢橘も熟
し「ぽん酢」をつけて食べる「ふぐちり」が人気の献立として成立したようです。
白菜の終わりは春です。菜の花が咲いて白菜は塔が立ち旬を終えます。
また、柑橘類はスカスカになって果汁は出なくなります。
ふぐ自身が産卵期を迎えるのもそれから一ヶ月程してからです。
「ふぐちり」という鍋料理は寒さと共に旬を迎え、温かさとともに旬を終えるということです。
◎固定観念
これだけ条件が整うと
ふぐ料理→ふぐちり→冬の物→彼岸から彼岸まで・・等という
固定観念ができてしまったのも当然のこととして理解できると思います。
また、冬にしか客が来ない為に 夏場は営業しないお店ができたのも 納得のいく話です。